若き薩摩の群像(1)

Bird’s- eye view
若き薩摩の群像

鹿児島中央駅前に‘若き薩摩の群像‘があるのをご存知でしょうか。19名の若き薩摩の侍たちです。
幕末期1865年、明治維新の3年前ですが、薩摩藩英国留学生15名と使節団4名が、グラヴァー商会の船に乗ってイギリスへと旅立って行きました。もちろん藩命とはいえ鎖国中ですので、全員が偽名を使って密かに串木野から出港したわけです。nagasawa08

イギリス、ロンドンに着いたサムライたちは、別々の家庭にホームステイし、ロンドン大学などで西洋の優れた学問や技術を学び、イギリスとの架け橋役となって薩摩に帰ってきました。彼らの活躍が、新しい日本の国造りに大いに役だったことは言うまでもありません。使節団の中には、大阪商工会議所の創始者である五代友厚、サッポロビールの創業者村橋久成、そして伊藤博文内閣の初代文部大臣森有礼もいました。しかし一人だけ日本に帰らずイギリスからアメリカへ渡ったサムライがいました。それが留学生の中で最年少の若干13歳、長沢鼎(ながさわかなえ)でした。

長沢鼎(ながさわかなえ)長沢

1983年11月11日、日本の国会でロナルド・レーガンアメリカ大統領が演説を行いました。演説の中で、尊敬すべき日本人を3人挙げています。福沢諭吉、松尾芭蕉そして長沢鼎です。 “ In 1865, a young Samurai student,Kanae Nagasawa left Japan to learn…
「1865年、長澤鼎という若い侍の留学生は、何が西洋を経済的に強め技術的に進歩させたかを学ぶため、日本を発ちました。それから10年後、彼はカリフォルニア州サンタローザに、‘ファウンテングローブ・ラウンド・バーン・アンド・ワイナリー’という小さなワイン工場を開き、やがてカリフォルニアのぶどう王として知られるようになりました。長沢鼎は、学ぶためにカリフォルニアに来て、そこに住みつき、そして私たちの生活を豊かにしてくれました。侍から実業家になったこの日本人は、日米両国に多くをもたらしました。」おそらく演説を聴いていたほとんどの国会議員、国民にとって、初めて聞く名前だったのではないでしょうか。
つづく                     (めーめー仔山羊)

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